10.8.15 日曜日礼拝メッセージ

「エペソでの伝道」(使徒19:1〜7)

1.聖霊に満たされる人生

 「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。・・・パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は十二人ほどであった。」(19:1、2、6、7)

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(エペソ5:18〜21)

2.御言葉を聞く人生

 「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」(19:8〜10)

 「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。・・・パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。・・・彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。・・・ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。」
使徒17:11、12)
3.悔い改めの人生

 「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、
主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」
                                (19:17〜20)
「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行
 く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく 
 義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22〜24)
                               

10.8.29 日曜日礼拝メッセージ

「羊飼いについていく」(ヨハネ10:1〜11)

1.私を造られた羊飼い

 「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(10:3)

 「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあ
  なたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。・・・」
(イザヤ43:1)
 「イエスは、・・・彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。・・・」「人の子は、失 
 われた人を捜して救うために来たのです。」」(ルカ19:5、10)

2.私のために死なれた羊飼い

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(10:11)

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みによ
 り、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ3:24)
 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。・・・そし  
 て自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(?ペテロ2:22、24、25)

3.私を永遠に導かれる羊飼い

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らは 
 わたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
                     (ヨハネ10:27、28)
「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」 
 (イザヤ30:19〜21)
「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」」(イザヤ48:17〜19)

10.8.8 日曜日礼拝メッセージ

「ヨーロッパへの宣教」(使徒16:6〜10)

1.御霊と幻に導かれる人生

 「それから、彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それで、ムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」(16:6〜10)

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)

2.人々に福音を宣べ伝える人生

 「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けた」(16:13〜15)

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
(マルコ16:15、16)
3.神に祈り賛美する人生

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。・・・看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。・・・看守はその夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。」(16:25、26、29〜31、33)

 「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(?歴代誌20:22)

10.9.5 日曜日礼拝メッセージ

「実を結ぶ信仰」(ヨハネ15:1〜8)

1.御言葉によって実を結ぶ

 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」(15:5、7)                        
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
(ルカ10:39、41、42)
「ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。・・・するとイエスは・・・彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。・・・この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」(マタイ26:7、10、12)

2.祈りによって実を結ぶ

 「あなたがたがわたしにとどまり、私のことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(15:7、8)

 「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『・・・あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に彼らを連れて来る』と。・・・ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。」(ネヘミヤ記1:8、9、11)

3.伝道によって実を結ぶ

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(15:16)

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音
 を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。・・・」・・・そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:15、20)
                              

10.9.12 日曜日礼拝メッセージ

「人を赦す」(マタイ18:21〜35)

1.私達は神から豊かに赦された者である。

 「王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」
(18:23〜27)
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によってはかえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

「「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。・・・」」(マタイ22:36〜40)

2.私達は赦された者として兄弟を赦すべきである。

 「ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。・・・そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」(18:28〜30、32、33)

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

3.人へのあわれみは神のさばきに向かって勝ち誇る。

「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(18:34、35)

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
(マタイ6:14、15)
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

10.9.19 日曜日礼拝メッセージ

「よい隣人となる」(ルカ10:25〜37)

1.キリストは私達を救い出して下さった。

 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」(10:30〜34)

「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。・・・盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:8、10)

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
(ローマ7:9、24、25)
2.私達は救われた者として人々の隣人になる。

「「・・・この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」」(10:36、37)

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。」(マルコ16:15、16)

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:41、42)

3.キリストは再臨の時私達に豊かな報いを与える。

「次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(10:35)

「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。・・・私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(?コリント9:18、23)

10.9.26 日曜日礼拝メッセエージ

「賜物を用いる」(マタイ25:14〜30)

1.主は私達に賜物(タラント)を与えて下さった。

 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」(25:14、15)

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:6〜8)

「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(?コリント12:8〜11)

2.賜物を生かして用いたものは主に称賛される。

「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(25:19〜21)
                               
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(?コリント5:10)

3.賜物を生かす方法は教会に自らをささげることである。

「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」(25:27)

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1、2)